「落ちこぼれの果てで見つけた宝物」
| 心のネット・タイ国障害児のための財団 横浜連絡事務所 成田正雄 |
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● 二つのいのち
『1998年バンコク。国立ラートシン病院。彼、ポーシンさんは骨にほんの少し肉を付けた体で横たわっていた。膝の間には「辱瘡(じょくそう)」よけのスポンジ。尿は留置カテーテルをつけて垂れ流し。手は動かない。−まぎれもなく「頚髄損傷」だ。少し軽いが同じ障害を持つ私は、受傷直後の自分の状況を思い出し震えた。四肢の麻痺、発汗機能なし、便尿のコントロール不能の頚損傷は、医療状況の厳しい灼熱の国では生存できないと思っていた。彼は澄んだ瞳で私を見た。私も彼を見つめた。私たちは生死の間を歩いてきた仲間だ。言葉や国はいらない。私は経済と医療に恵まれた地域に住み、海を渡ってここにいる。彼は寝たきりの状態で5年目を迎えた。わずかに残る生命力が辛うじて彼を支えている。私が彼であったかもしれない。彼の冷たい手を握りながら、生存の場の少しの違いが「いのち」を決める不条理に私は泣いた。』
● 降りて、見つけて、また降りて
僕は昭和28年、東京に生まれた。中学に入るころ、世には競争社会の雰囲気が浸透していた。「学校と会社」を目指す受験体制に疑問を持ち、高校入学と同時に心の中で降りてしまった。また、学生運動の余波も伝わってきた。皆が歩む方向は違う、と否定することに力を使い、自分の道、本当にやりたいことが見つからなかった。
唯一、熱くなれるのが「港湾労働」だった。汗を流し、体を動かしているときだけ充実感があった。22歳のとき、北アルプスの山小屋で小屋番をした。自然の厳しさと人との出会い。この時の体験が心に残り「本当の出会いができる場」を造ろうと、現実性の薄い夢にとりつかれた。夢中で追い続けるうち、半ばアル中、乞食、精神分裂病になって路上に倒れた。...翌朝目を覚ますと、長い間自分を包んでいたもやもやがすっかり消えて晴れやかな気分になった。世界が一変していた。
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↓ 「心はノミのように小さくなるが、広がれば宇宙大にもなる」 ↓ 「心が宇宙大になれば、地球は内包される」 ↓ 「地球は自分の内部、地球で出会うすべては自分」 |
わかりにくいと思うが、この感覚、この「再生の体験」が後に窮地を支える心の拠り所となる。ようやく見つけた「価値観」。その思いを現実にどう活かしていくか?色んな仕事をするなかで探し続けた。しかし、ぴたっと来るものが見つからない。そのうちにだんだん自分が追い込まれてきた。誰ともつながらないで、独りで生きるのは本当につらい。だんだん心が弱ってくる。血圧が無くなり、身体がが動かなくなる。26歳のとき、とうとう行き詰って死のうと思った。結局、死にきれなかったが希望を失い、流されて行く日々だった。
● 障害との出会い
悪いことは重なるもの、1981年3月交通事故をおこした。首の骨を折った。命は助かったが、胸から下の感覚が消えていた。社会的、職業的に駄目なのに、身体までアウトになった。自分の人生もこれまで、と観念した。ところが、不思議なことに全てを無くした暗闇に、六年前につかんだ感覚が、蘇ってきた。何か圧倒的な力が心の奥から立ち上がり、全身を覆っていた絶望感と対峙した。光が射しこんできた。それでも、初めて車いすを見た時、「こんなのに、一生乗るのか」と、思わず涙が出た。しかし、今はそれが幸福を運んでくれた恩人にさえ思える。
決定的だったのは、富士山に車いすで登ったこと。新聞で登山の呼びかけを見て参加した。方法は車いすにロープをつなぎ、犬ぞりのように10人で引っ張る。普通の人が五時間で登るところを三日もかかって登った。この体験は僕の障害観を根っこから揺さぶった。
● 初めてのボランティア
タイの障害児が描いた絵を見たのがきっかけだった。絵画展を開いてみないか?と誘われた。それまでタイの事情も展覧会のやり方も、何も知らなかった。手当たりしだいに人に声をかけ、頼みこんだ。夢中で準備するうち、思いもかけない多くの人が協力してくれた。ふたを開けてみると、入場者は7000名にものぼった。アジアとの幸運な出会い。人のつながりの力に驚かされた。何も能力が無くても、皆の幸せを願う行動を取ると、多くの人が協力してくれる。自分だけの世界で生きてきて、初めて「つながり」と「分かち合い」これが探し求めてきた物だな、と気付いた。この二つで生きてみようと決めた。僕には仕事(当時、県職員)を辞めるくらい、大きな出会いだった。
● もうひとつの世界
今まで職業を通した社会参加した知らなかったので、あちこちの草の根の活動現場を訪ね歩いた。探してみると、きりがないほど沢山あった。何も行動してない自分には見えない世界だったのだ。多様な現場で何千もの人に会った。病気、障害を持つ人。差別に苦しむ人。アジアの人...色んな現場に行く度に自分の中にエネルギーが沸いてきた。何故だろうか?
社会の「主流」から外れたところに、少数の厳しい状況の人達がいて、支えあって生きている。そこには、人と人とのつながり、「暖かい心の集まり」がある。僕はそこに触れてエネルギーを得ていたのだ。
振り返ると、人に迷惑を掛けるだけの情けない人生だった。それだけに障害以降、出会った世界のありがたさが身にしみた。
車いすに乗って気付いたのは、日本人が異質の他者に対して心を開けない「人間性の障害」という最も重い障害を抱えているということだ。これは「人とのつながりの障害」なので、「分かち合いの実践」が最良の克服法だと思う。日々起こる、一見多様な社会問題も、「根っこ」の原因は、「人とのつながりが断ち切れている」事にあるのではないか?
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心のネット
この状況で、何か自分にできる事はないか?一方に分かち合いのつながりを持つ少数の人達がいる。彼らは各々の活動を通して生きる手応えを感じている。他方、物質的には豊かだが、職場(学校)と家庭だけでは充たされない「何か」、人生の手応えを探している大勢の人達がいる。両者は手を握りたがっている。しかし、そこには「壁」がある。時間がない。出会うきっかけがない。面倒だ。金は出したくない...その壁を乗り越え、両者のつながりをつくろうと始めたのが「心のネット」だ。心のネットは赤ちゃんからお年寄りまで地球人なら誰でも参加でき、組織もない。あるのは「多様な人間の心のつながり」だけ。つながりから生まれるエネルギーを厳しい状況にいる人に向けていく。
「皆、同じ地球を生きる仲間じゃないか。色んな人と友達になろう!」とあちこちで呼びかけてきた。僕は自分の乗っている車いすが出会う人の心に波紋を浮かべ、人間性を引き出す不思議な力があることに気付いた。誰もが持っているその部分をつなげ、具体的な活動提案をしていく。遠回りのやり方だ。でも続けるうちに色んな事が起こってきた。タイの絵画展が50回開催された。出前講演会も30回を数える。心ひとつぶキャンペーンに4000人、S.W.地球子供基金に400人が参加し、13カ国以上の厳しい状況にいる子供たちを支援している。13の市民グループに切手や資金で協力している。
ここ数年「心のネット」に夢中で関わり、数は増えてきたが、まだまだ表面的だ。これからは、「ひとりと深くつながること」を主眼に、ようやく見つけた「自分の道」をゆっくり歩んで行こう。
その後17年間思い続けた夢「海と風の宿」が1993年に沖縄にできました。沖縄県名護市より車で20分。一山こえると目の前に大平洋!大浦湾に面した。我が集落の世帯数はたったの100戸。庭にはハイビスカスが咲き乱れる桃源郷です。皆に使ってほしいと用意しました。ぜひ、ぜひいらして下さい!